日本人と海苔の1300年:風土記の記録から江戸の「浅草海苔」、戦後の養殖革命まで

着物姿で町を歩く人

おにぎりや手巻き寿司、お正月の磯辺焼き。海苔は、日本人の食卓にごく当たり前にある食材です。しかし、四角い板状の海苔が生まれたのは江戸時代の中頃で、海苔を安定して育てられるようになったのは、実は第二次世界大戦の後のことでした。一方で、日本人が海苔を食べてきた歴史そのものは、文字の記録だけでも1300年以上にさかのぼります。この記事では、古代の文献、自治体の資料、食文化の研究機関の解説をもとに、日本人と海苔の長い歴史を、古代・江戸・近代の3つの時代に分けてたどります。

1300年前の記録:風土記と大宝律令に登場する海苔

日本人がいつから海苔を食べていたのかははっきりしませんが、品川区の資料では、縄文時代の東京湾沿岸の貝塚から見つかる貝類が今も同じ海に生息していることから、当時もアマノリの仲間などの海藻が繁殖し、食用にされていたと考えられるとしています。

文字で確かめられる最も古い記録のひとつが、奈良時代の初めにまとめられた『常陸国風土記』です。そこには、倭武(やまとたける)の天皇が海辺を巡った際、浜辺いっぱいに海苔が干してあったという話が記されています。同じ頃の『出雲国風土記』にも、紫菜(むらさきのり)は楯縫郡のものが最も優れているという記述があります。楯縫郡は現在の島根県出雲市の一部で、今も「十六島(うっぷるい)のり」で知られる岩のりの産地です。

さらに701年に編さんされた日本初の本格的な法典『大宝律令』には、税として納める海産物29種のうち、紫菜をはじめとする8種の海藻が挙げられています。キッコーマン国際食文化研究センターは、このことから当時すでに日本各地で海苔が生産されていたことがわかると解説しています。この大宝律令の施行日を西暦に換算した2月6日は、1966年から「海苔の日」とされています。平安時代には、宇治の平等院の落成を祝う膳にも海苔が出されたと伝えられています。平安時代の法令集『延喜式』にも海苔の貢納が記されており、身分の高い人々の食べ物とされていました。

ただし、この時代の海苔は、岩場に自然に生えたものを摘み取って食べるものでした。量も限られた貴重な食材で、税や貢ぎ物として都に納められる特別な品だったのです。海苔が庶民の食べ物になるには、江戸時代の2つの発明を待たなければなりませんでした。

江戸湾で始まった養殖:品川・大森の「ひび」

1つ目の発明は、海苔の養殖です。品川区の資料によると、江戸時代の延宝年間(1673〜1680年)の頃、品川の漁業者が、魚を生かしておく「いけす」の木の柵に海苔が生えているのに気づいたことが、養殖法の発明につながったといわれています。暴風で壊れた柵の木や竹が流れ着き、そこに海苔が育っているのを見て思いついたという話も残っています。

こうして生まれたのが、海の中に木の枝や竹を立てて海苔を付着させる「ひび(篊)」による養殖です。品川ではよし竹、大森では雑木の枝を立てていたという記録もあります。大田区の記念碑によると、大森の周辺でも延宝年間頃に海苔養殖が始まり、享保年間(1716〜1736年)には産業として確立しました。ただし、当時は海苔の一生がわかっていなかったため、胞子が自然に付くのを待つしかなく、収穫は天候次第で安定しませんでした。海苔が「運草(うんぐさ)」と呼ばれたゆえんです。

大森の海苔の発展には、意外な出来事も関わっていたといわれています。大田区の記念碑の解説や大田区史によると、江戸幕府5代将軍・徳川綱吉の「生類憐みの令」に関連して、元禄5年(1692年)には浅草近辺で漁業が禁止されました。生活の手段を失った浅草の漁師たちは、船をつなげる川のある大森に移り住みます。移住した人々が浅草神社の氏子であり続けた記録が、今も浅草神社に残されているといいます。この人の流れが、浅草と大森を結びつけることになりました。

大森の海苔は品質が高く、江戸時代には徳川幕府へ「御膳海苔」として上納されました。その後、明治・大正から昭和の初めまで、大森の海苔の生産量は全国一を誇り、大森は海苔の「本場」として全国に名を知られるようになります。

紙すきから生まれた板海苔と「浅草海苔」の名

2つ目の発明が、紙のように薄く四角い板海苔(抄き海苔)です。それ以前は、摘んだ海苔をそのまま広げて干すなどして食べていました。キッコーマン国際食文化研究センターによると、享保年間に、浅草紙(使用済みの紙を漉き直した再生紙)の紙漉きの技法をまねた、現在と同じような四角い板状の海苔が開発されました。刻んだ海苔を水に溶かし、すだれの上の枠に流して乾かすこの方法は、今の全自動の製造機にも受け継がれています。

板海苔が「浅草海苔」と呼ばれるようになった理由には、いくつかの説があります。品川や大森でとれた海苔を浅草に運んで加工したからという説、隅田川(浅草川)でとれたからという説、そして大森の野口六郎左衛門が浅草紙の作り方をまねて乾海苔を作り、浅草の問屋に売ってもらったからという説などです。浅草には海苔問屋が軒を並べ、浅草寺の門前の市は大いににぎわったといわれています。

当時、大森や品川ではすでに海苔の養殖が行われていましたが、生の海苔は日持ちがしないため、雑炊や汁物に入れて自分たちで食べるのが中心だったといいます。板状の乾海苔にすることで保存と輸送ができるようになり、海苔は初めて江戸の町で広く売り買いされる商品になりました。紙すきの技術との出会いが、海苔を地元の食材から江戸の名産品へと変えたのです。

瓦屋根の古い町並み

江戸時代、浅草海苔は江戸を代表する名産品として全国に知られるようになった

江戸のファストフードから全国の産業へ

板海苔の誕生によって、海苔は江戸の人々の暮らしに一気に広がりました。キッコーマン国際食文化研究センターによると、板海苔が開発されたのを機に江戸では海苔巻きが流行し、屋台でも売られるようになりました。ファストフードのような感覚で食べられていたのでしょう。やがて浅草海苔は京都の宮中にも献上され、天保の頃(1830〜1844年)には江戸の名産品として全国に知られるようになります。

今では当たり前の焼き海苔が商品として登場したのは、江戸時代も終わりに近い1844年(弘化元年)のことです。大森の三浦屋田中孫左衛門が考案したとされています。あぶって香ばしくした海苔は、そのまま食べてもおいしく、海苔の食べ方の幅を大きく広げました。

江戸で生まれた養殖と製造の技術は、やがて全国へ広がっていきます。大田区の記念碑によると、江戸時代後期には、地方に招かれた大森の海苔漁師や、冬の農閑期に大森で海苔の仕事に携わった信州(長野県)の商人たちによって、技術が日本各地に伝えられました。明治以降は各地で養殖が本格化し、昭和2年(1927年)には海苔の養殖網が発明されるなど、道具も改良されていきました。乾海苔の大きさが縦21cm×横19cmに全国で統一されたのは、昭和40年代のことです。

養殖の道具も時代とともに変わりました。品川区の資料によると、江戸時代から明治の終わり頃までは樫やけやきなどの木の枝を使った「木ひび」が盛んに使われましたが、需要の増加に追いつかず、大正末期からは孟宗竹を使った「竹ひび」に代わり、昭和5年頃にはほとんどが竹ひびになりました。その後、ヤシの繊維を使った網が実用化され、さらに丈夫な合成繊維の網が登場したことで、養殖の方法は大きく進歩しました。

「運草」の終わり:ドゥルー女史の発見と、東京湾の海苔の終わり

海苔の歴史を最も大きく変えたのは、1949年の発見でした。イギリスの海藻学者キャスリーン・メアリー・ドゥルー=ベーカー女史が、海苔が春から秋にかけて貝殻の中で糸のような姿(糸状体)で過ごしていることを明らかにしたのです。この発見をもとに、1953年に熊本県水産試験場の太田扶桑男技師が、人工的に海苔の種を網に付ける「人工採苗」を成功させました。天然の種に頼っていた海苔養殖は、ここでようやく「運草」から脱し、全国で安定して大量に生産できる産業になりました。

日本の海苔業界は、今もドゥルー女史を「恩人」として敬っています。海苔生産の中心地である有明海を望む熊本県の住吉神社には女史の顕彰碑が建てられ、4月14日は「ドゥルー祭」とされています。2001年には女史の生誕100周年の行事も開かれました。

一方で、海苔養殖の発祥の地である東京湾の海苔づくりは、高度経済成長とともに終わりを迎えます。品川区の資料によると、品川の海苔は昭和30年(1955年)に約9,500万枚を生産していましたが、東京港の建設のため、昭和37年(1962年)を最後に漁業権を全面的に放棄しました。大森の海苔養殖も同じ頃に幕を閉じ、現在は大田区の「海苔のふるさと館」が、200年以上続いた江戸前の海苔の歴史を伝えています。江戸で生まれた技術は全国に受け継がれ、いま私たちが食べている海苔の多くは、有明海や瀬戸内海で育っています。

かつて江戸の海苔の代名詞だったアサクサノリは、病気に弱く育てにくいことから養殖の主役を丈夫なスサビノリに譲り、野生種は環境省のレッドリストで絶滅危惧Ⅰ類に指定されるまでに減りました。近年は、この希少なアサクサノリの野生種を育て、昔ながらの江戸前の海苔を復活させようという動きも出てきています。1300年の歴史を持つ海苔の物語は、今も続いているのです。

この記事のまとめ

日本人が海苔を食べてきた歴史は、奈良時代の『常陸国風土記』や701年の『大宝律令』など、文字の記録だけでも1300年以上にさかのぼります。江戸時代の延宝年間頃に品川・大森で「ひび」を使った養殖が始まり、享保年間には浅草紙の技法をまねた板海苔が生まれ、「浅草海苔」として江戸の名産品になりました。1844年には焼き海苔が考案され、海苔巻きは江戸のファストフードとして親しまれました。1949年のドゥルー女史による糸状体の発見と1953年の人工採苗の成功で、海苔は安定した産業へと生まれ変わりました。発祥の地・東京湾の海苔養殖は1962年に終わりましたが、その技術は全国の産地に受け継がれています。

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